2009年3月31日火曜日

詩も不確かなのです

大きな図書館に行けば朱子のこの語はあるでしょうが、面倒臭い私は投稿します。

蒼顔已是十年前 把鏡回看一悵然
履薄臨深諒無幾 且將餘日付殘編

これは、山崎闇斎が社倉法序に書いた朱子の語です。
あまり難しい語ではないと思いますが、正確にはどう読むのでしょう?

あまりに有名な詩らしいので、恥ずかしいから私の訳はコメントに載せます。

5 件のコメント:

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

恒ちゃんは以下の通りに読みました。

蒼顔已に是れ十年前
鏡を把りて回らし看れば一悵然
薄を履み深に臨むこと諒[まこと]に幾[いくばく]も無し
且[また]餘日を將[もっ]て殘編を付さん

孔子や孟子と同じく、朱子も政治から離れて後生の為の事業をしようと思った時の詩だと黙斎は言います。

良南釣徒 さんのコメント...

 よい感じの読みだと思います。この詩は『朱文公文集』巻9の一番最後にありました。
 訓点本(多分、浅見綗斎の訓点)では、以下のようになっていました。
「蒼顔已に是十年前 把てレ鏡を回看一ひ悵然
 履薄臨深諒に無レ幾く 且將₂餘日₁付す₂殘編に₁」
 
 朱子がなくなる一月前の詩だそうです。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

良南釣徒様、ありがとうございました。
ところでこれも携帯で書いたのですか?
ここに絅斎の訓点が出て来るとは、やはりこの道の方でなければ出来ないことです。私には手の出せない世界です。
ただ、恐れ多くも浅見絅斎の読みに些かわからない点があります。
これは南城の呉氏が朱子の十年前の画を朱子に贈った時に朱子が詠んだ詩の様です。朱子が亡くなる一ヶ月前とのことですので、朱子の最晩年の出来事です。
十年前の自分の画を観て朱子は、死が迫っているが、残った時間にもう少し学問に打ち込もうと誓った詩なのだろうと私は思います。
私がわからないのは二つ。
一つは「把てレ鏡を回看一ひ悵然」は「鏡を把って回看すること一たび、悵然とす」でしょうか?
もう一つは、「且將₂餘日₁付す₂殘編に₁」は「且餘日を將て殘編に付す」でしょうか?
特に二番目ですが、余日と言っているのに、何故絅斎は「付す」と訓をしたのか?何故「付さん」としたのか?
些細なことなのですが、何か意志みたいなのがあったのか?それとも、私の勘違いか?そんなことが気になるのです。
ところで、この詩の載っている『稲葉黙斎先生農村自治に關するの訓戒』は近日中にHPに載せるつもりです。

良南釣徒 さんのコメント...

わたしは高校のときからこういった中国古典や漢文が好きで、『近思録』やら『唐詩選』やら、色々と読んでいました。実は、今年から学校で勉強することになりまして、この投稿も学校のPCからなのです。

訓点本についてですが、中文出版などでわれわれが見ることのできる『朱文公文集』は、浅見ケイ斎の訓点でして、読解の正確さなどから、かなり評判がよいもののようです。

承句なのですが、切れ目は「鏡を把って回看するに、一たび悵然」でしょう。「一悵然」は、「ただ悵然とするばかりである」くらいの意味かと思いますが、ケイ斎は「ひとたび」と読みを振っているのですねぇ。ちょっとしっくり来ませんが、訓読というのは、本来便宜的なものなので、まぁいいのかなと思います。

結句は、仰る通り「且餘日を將て殘編に付す」というのがケイ斎の読みでしょう。「付」は「ふす」よりも、柏木さんの「ふさん」という未来形のほうがこなれた読みのように感じます。「ふす」というのでは、いかにもぶっきらぼうですよね。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

良南釣徒様

適切なご助言、ありがとうございました。これで行きます。
また、学校へ通うのですか!良南さんの年齢がわからないのですが、社会へのスタートはレールの通りでなくても構わないと思います。私は40歳近くになって転職して、それから十余年が過ぎましたが、結構、よい転職だったと思っています。勉学に励んで下さい。
それと、神頼みの神が、貴方を「的を外さず的確な解釈が多い。」と評価しておりました。