2009年6月25日木曜日

今日の質問

今日は二程全書の遺書二先生語三から。
孟子の語である「萬取千焉、千取百焉」の注に「齊語謂某處取某處遠近。」とあります。この注はどのような意味なのでしょう?「齊語に謂う、某の取る處は某の遠近する處、と。」?

2009年6月21日日曜日

今日の質問(写真付き)

今日は『二程全書』の「遺書三」からです。

写真(二程全書)にある、「漢成帝夢上帝敗我濯龍淵、打不過。」の読みがわからないのです。
このことは、インターネットに「許楊説:從前成帝採納了翟方進的意見,不久夢見自己到天上,天帝發怒説、為什麼要毀掉我的濯龍淵?自此以後百姓失去了它給予的好處,導致許多人飢餓窮困。」などとありますので、漢の成帝が濯龍淵を壊したのを上帝が怒ったという夢を成帝が見たということでしょう。しかし、後半の「打不過。」ってどういう意味(読み)なのでしょう?

2009年6月19日金曜日

今日の質問

またもや『二程全書』の「遺書二下」からです。
原文は、
「萬物皆備於我、此通人物而言。禽獸與人絕相似、只是不能推。然禽獸之性卻自然、不待學、不待敎。如營巢養子之類是也。人雖是靈、却椓喪處極多。只有一件、嬰兒飮乳是自然、非學也。其佗皆誘之也。欲得人家嬰兒善、且自小不要引佗。留佗眞性、待他自然、亦須完得些本性須別也。です。
ここの「且自小不要引佗。留佗眞性、待他自然」は二程集の句読点であり、二程全書では「且自小不要引佗留佗。眞性待他自然」です。
二程集の流れで読むと、「萬物皆我に備わるというは、此れ人物に通じて言えり。禽獸と人と絕[はなは]だ相似れども、只是れ推すこと能わず。然も禽獸の性は卻って自然にて、學を待たず、敎を待たず。巢を營み子を養うの類の如き是れなり。人は是れ靈なりと雖も、却って椓喪する處極めて多し。只一件、嬰兒の乳を飮むこと有るは是れ自然にして、學に非ざるなり。其の佗は皆之を誘うなり。人家嬰兒の善を得んことを欲せば、且小より佗を引くことを要せず。佗の眞性を留め、他の自然を待ち、亦須く些かの本性を完うし得べく須く別つべし。」となる?二程全書によれば「人家嬰兒の善を得んことを欲せば、且小より佗を引き佗を留めることを要せず。眞性は他の自然を待つ。」とでもなるのでしょうか?しかし、最後の「亦須完得些本性須別也。」もうまく読めません。難しいです!

2009年6月17日水曜日

今日の質問

今回は『二程全書』の「遺書二下」からです。
原文は、
餽運之術、雖自古亦無不煩民、不動搖而足者。然於古則有兵車、其中載糗糧、百人破二十五人。然古者行兵在中國、又不遠敵。若是深入遠處、則決無省力。且如秦運海隅之粟以饋邊、率三十鍾而致一石。是二百倍以來。今日師行、一兵行、一夫饋、只可供七日、其餘日必倶乏食也。且計之、須三夫而助一兵、仍須十五日便囘。一日不囘、則一日乏食。以此校之、無善術。故兵也者、古人必不得已而後用者、知此耳。
ここの「百人破二十五人」の「」はどういう意味なのでしょうか?私は「百人を二十五人づつに分ける」の意ではないかと思うのですが・・・。
ちなみに以下の通り読み下しました。
『餽運の術は、古自りすと雖も亦民を煩わさず、動搖せずして足る者無し。然も古に於ては則ち兵車有り、其の中に糗糧[きゅうりょう]を載せて、百人もて二十五人を破る。然も古は兵を行うは中國に在り、又遠く敵せず。若し是れ深く遠處に入るときは、則ち決して力を省くこと無し。且秦の海隅の粟を運んで以て邊に饋[おく]るが如き、率ね三十鍾にして一石を致す。是れ二百倍以て來るなり。今日の師行に、一兵行き、一夫饋るは、只七日に供す可く、其の餘日は必ず倶に食に乏し。且之を計るに、須く三夫にして一兵を助くべく、仍[よ]って須く十五日にして便ち囘るべし。一日も囘らずんば、則ち一日食に乏し。此を以て之を校[くら]ぶるに、善き術無し。故に兵とは、古人必ず已むことを得ずして後に用うる者は、此を知るのみ。』
それと、「邊、率三十鍾而致一石。」は『二程全書』では「邊率三十鍾而致一石。」で、「邊率に饋る」となっています。

2009年6月6日土曜日

今日の質問は2つ

今回も『二程全書』の「遺書二上」からです。

先ずは1つ目;
今日卓然不爲此學者、惟范景仁與君實爾。然其所執理、有出於禪學之下者。一日做身主不得、爲人驅過去裏
読みは、「今日卓然として此の學を爲さざる者は、惟范景仁と君實とのみ。然れども其の執る所の理は、禪學の下に出づる者有り。一日も身の主と做[な]して得ざれば、人の爲に驅過して裏に去る。」でしょうか?

2つ目;
今志於義理而心不安樂者、何也。此則正是剩一箇助之長。雖則心操之則存、舍之則亡、然而持之太甚、便是必有事焉而正之也。亦須且恁去如此者、只是德孤。德不孤、必有鄰。到德盛後、自無窒礙、左右逢其原也。
読みは、「今義理に志して心安樂ならざる者は、何ぞや。此れ則ち正に是れ一箇の之を助けて長ぜしむることを剩[あま]すなり。則ち心之を操るときは則ち存し、之を舍つるときは則ち亡ぶと雖も、然れども之を持すること太甚だしければ、便ち是れ必ず事とすること有りて而して之を正[あてて]するなり。亦須且恁去如此者は、只是れ德孤なり。德孤ならざれば、必ず鄰有り。德盛んなる後に到りて、自ら窒礙無く、左右其の原に逢うなり。」としましたが、赤字部分が全く読めないのです。

2009年6月2日火曜日

本当に久し振りの質問!

今回は只今取り組み中の『二程全書』の「遺書二上」から。
どうも文意がわからないのです。それは、これです。

「世間有鬼神憑依言語者、蓋屡見之。未可全不信。此亦有理。莫見乎隱、莫顯乎微而已。嘗以所求語劉絢、其後以其思索相示。但言與不是、元未嘗告之。近來求得稍親。」

私なりに以下の通りに読みました。
世間鬼神憑依して言語する者有り、蓋し屡々之を見る。未だ全くは信ぜずんばある可からず。此れ亦理有り。隱より見[あらわ]れたるは莫く、微より顯らかなるは莫きのみ。嘗て求むる所を以て劉絢[りゅうけん]に語りて、其の後其の思索を以て相示す。但言不是に與れば、元より未だ嘗て之に告げず。近來求め得ること稍親[ちか]し。

特にわからないところは、後半の「但言與不是、元未嘗告之。近來求得稍親。」です。
全体の文意は鬼神の憑依を肯定するものなのだろうが、後半に何故この語があるのか、それを理解することができないわけです。