2010年6月26日土曜日

久し振りの質問=二程全書「銘詩」より


久し振りの質問です。『二程全書』「銘詩」の最初の文です。
赤線の「千載之上、顏惟(一作爲)孔學、百世之下、顏居孔作。」ですが、千載之上と百世之下、顏惟(一作爲)孔學と顏居孔作は対になっていると思うのです。そこで、顏惟(一作爲。)孔學と顏居孔作をどう読めばよいのか?がわかりません。
本の通りだと、「千載の上、顏惟孔學び、百世の下、顏居り孔作す。」
惟はどう読むのか?もしも惟が爲であれば、又どう読むのか?
惟と居、學と作とが対みたいになっているから、惟は動詞ではないのか?惟は「おもう」か?

2010年2月11日木曜日

二程全書外書第十二から


ページがまたがったのでちょっと読みにくいですが、外書第十二からの質問。
写真は中文出版の『二程全書』で、
「先生曰、伊川常愛衣皁、或塼褐紬襖。其袖亦如常人。所戴紗巾、背後望之如鍾形。其製乃似今道士謂之仙桃巾者。然不曾傳得樣。不知今人謂之習伊川學者大袖方頂何謂。」です。
ここの最後の「不知今人謂之習伊川學者大袖方頂何謂」ですが、里仁書局の『二程集』では「不知今人謂之習伊川學者大袖方頂何謂」となっています。
ここの赤字のところはどう読むのでしょう?
とりあえず、こんな風に読んでみましたが、どうも違う様な・・・?
「先生曰く、伊川常に衣の皁[そう]、或は塼褐[せんかつ]紬襖[ちゅうおう]を愛す。其の袖も亦常人の如し。戴[おお]う所の紗巾、背後より之を望めば鍾の形の如し。其の製は乃ち今の道士之を仙桃巾と謂う者に似れり。然れども曾て樣を傳え得ず。知らず、今の人之を伊川を習う學者の、大袖方頂と謂うは何の謂ぞや、と。」それとも「知らず、今の人之を伊川をして學者の大袖方頂に習わしむと謂うは何の謂ぞや、と。」かなぁ?わからない!

2010年1月14日木曜日

どちらが正しいのか?

中文出版社の『二程全書』と、里仁書局の『二程集』とでは、句読点の位置や語自体に相違がしばしばある。どちらが正しいのか?わからない。

最近悩んでいるのは「二程全書巻之三十九(外書第十二)」(里仁書局では「河南程氏外書巻第十二」)である。

そこには、里仁書局本には「二程之學、以聖人爲必可學而至必欲學而至於聖人。」とある。
今まで読んでいた中でという言葉をこの様に使うところがあっただろうか?
ここは「二程之學、以聖人爲必可學而至而。必欲學而至於聖人。」の方がすんなりと読めるのではないだろうか?

それと、里仁書局本には「祐二年正月二十五日戊寅、内侍至資善傳旨、權罷講一日。二十七日庚辰、資善吏報馬宗道云、上前日微傷食物、曾取藥。恐未能久坐、令講讀少進說。」とあるが、中文出版社本ではとなっている。こちらは食するの意から動の方がよいか?と思うのだが…。わからない。

ブログが苦手でしたら、メール下さい。
メールアドレス:mokusai@vega.ocn.ne.jp

2010年1月1日金曜日

とても久しぶりの質問


とても久しぶりの質問。相変わらず『二程全書』からです。
赤線の部分ですが、これは菜根譚にもあるようです。
読みもそうですが、意味もちょっとしっくりといかないのです。

2009年10月7日水曜日

今日の質問。「恰限」とは?

今日は『二程全書』の十九から。
「禮記儒行・經解、全不是。因舉呂與叔解亦云、儒行夸大之語、非孔子之言。然亦不害義理。先生曰、煞害義理。恰限易、便只潔靜精微了却、詩、便只溫柔敦厚了却、皆不是也。」の恰限をいかに読むかです。わかりません!!
それ以外は以下の通り読みました。
「禮記の儒行・經解は、全く不是なり。因りて呂與叔の解を舉げて亦云う、儒行夸大の語、孔子の言に非ず。然れども亦義理を害せず、と。先生曰く、煞だ義理を害す。恰限易は、便ち只潔靜精微了却し、詩は、便ち只溫柔敦厚了却すとは、皆是ならず、と。」
「恰[あたか]も限って」などと読んでよいのだろうか?

2009年9月26日土曜日

久しぶりの質問

今回も『二程全書18』から

問、老子書若何。曰、老子書、其言自不相入處、如冰炭。其初意欲談道之極玄妙處、後來却入做權詐者上去(如將欲取之必固與之之類。)。然老子之後有申・韓。看申・韓與老子道甚懸絕。然其原乃自老子來。蘇秦・張儀則更是取道遠。初秦・儀學於鬼谷。其術先揣摩其如何、然後捭闔、捭闔旣動、然後用鉤鉗、鉤其端然後鉗制之。其學旣成、辭鬼谷去。鬼谷試之、爲張儀說所動如入菴中說令出之。。然其學甚不近道、人不甚惑之。孟子時已有置而不足論也。

老子・申・韓・蘇秦・張儀に対する伊川の評価。ここの小注の「如入菴中說令出之」をどう読めばよいのかがわかりません。

句全体は以下のとおりに読みました。
「問う、老子が書は若何、と。曰く、老子が書は、其の言自づから相入れざる處、冰炭の如し。其の初意は道の極玄妙處を談ぜんと欲するも、後來却って權詐を做す者の上に入り去る(將に之を取らんと欲すれば必ず固より之を與うの類の如し。)。然も老子が後に申・韓有り。申・韓と老子とを看るに道甚だ懸絕せり。然れども其の原は乃ち老子自り來る。蘇秦・張儀は則ち更に是れ道を取ること遠し。初め秦・儀鬼谷に學べり。其の術先づ其れ如何と揣摩[しま]して、然して後に捭闔[はいこう]して、捭闔旣に動いて、然して後に鉤鉗[こうかん]を用いて、其の端を鉤して然して後に之を鉗制す。其の學旣に成りて、鬼谷を辭し去る。鬼谷之を試すに、張儀が說の爲に動かさる(如入菴中說令出之。)。然れども其の學甚だ道に近からず、人甚だしくは之に惑わず。孟子の時已に置いて論ずるに足らずとすること有り、と。」

鬼谷先生のもとを去る時に先生が張儀を試したのだが、かえって張儀の方が一枚上だった、ということなのではないだろうか?しかし、その様な出来事はどの本に載っているのだろう?「如入菴中說令出之」は、「菴中に入るに說いて之を出さしむが如し」などと読めるのだろうか?

2009年7月17日金曜日

今日の質問。写真付

今日も『二程全書』からで、「遺書二先生語第七」から2問。

2行目と6行目の文です。

2行目:
敬下驢不起。世人所謂高者却是小。陳先生大分守不足。○足一作定。

注は「世人の所謂高きは却って是れ小。陳先生大分守って足らず。○足は一に定に作る。」とでも読むのでしょうか?それよりも本文が問題です。下驢不起それぞれの語の間に「-」が入っているのが特にわからないわけです。

6行目:
以誠意氣楪子、何不可。若有爲果子、係在他上、便不是。信得及便是也。氣、一作幾。
写真は『二程全書』で、上の文は『二程集」からです。
氣楪子」とは?「若有爲果子、係在他上」とは?