2009年6月6日土曜日

今日の質問は2つ

今回も『二程全書』の「遺書二上」からです。

先ずは1つ目;
今日卓然不爲此學者、惟范景仁與君實爾。然其所執理、有出於禪學之下者。一日做身主不得、爲人驅過去裏
読みは、「今日卓然として此の學を爲さざる者は、惟范景仁と君實とのみ。然れども其の執る所の理は、禪學の下に出づる者有り。一日も身の主と做[な]して得ざれば、人の爲に驅過して裏に去る。」でしょうか?

2つ目;
今志於義理而心不安樂者、何也。此則正是剩一箇助之長。雖則心操之則存、舍之則亡、然而持之太甚、便是必有事焉而正之也。亦須且恁去如此者、只是德孤。德不孤、必有鄰。到德盛後、自無窒礙、左右逢其原也。
読みは、「今義理に志して心安樂ならざる者は、何ぞや。此れ則ち正に是れ一箇の之を助けて長ぜしむることを剩[あま]すなり。則ち心之を操るときは則ち存し、之を舍つるときは則ち亡ぶと雖も、然れども之を持すること太甚だしければ、便ち是れ必ず事とすること有りて而して之を正[あてて]するなり。亦須且恁去如此者は、只是れ德孤なり。德孤ならざれば、必ず鄰有り。德盛んなる後に到りて、自ら窒礙無く、左右其の原に逢うなり。」としましたが、赤字部分が全く読めないのです。

4 件のコメント:

良南釣徒 さんのコメント...

 お久しぶりです、ご無沙汰してしまい、すみませんっ!とうとう『二程遺書』に着手されたのですね!応援してますよ☆
 さて、最初のお題の赤線部分、「一日做身主不得、爲人驅過去裏。」ですが、このような感じでないでしょうか。
 「一日身の主と做り得ざれば、人に驅(か)られ過ぎ去(ゆ)き裏(おわ)る。」(いったん身の主となることができなければ、人に駆役されてしまう。)
 「爲」が受身、「過去」が動詞に方向性のニュアンスを出す方向補語で、「裏」が物事の完成・実現のニュアンスを出す助詞「了」と同じで、「おわる」と訓読してしまってよいと思います。
 2番目「亦須且恁去如此者」ですが、正直、よく分かりません…。「須且」を仮定っぽくとり、「恁」を二人称として、「もしあなたがこのようにしたならば~」くらいに読めないかなと考えています。しかし、確信はまったくありません。頼りないコメント申し訳ないっす。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

「一日做身主不得、爲人驅過去裏。」ですが、これは『二程集』の句読点です。これが『二程全書』になると「一日做身主、不得爲人驅過去裏。」となります。
私は、取り敢えず『二程全書』の句読点を採用して、「一日も身の主と做せば、人の過ちを駆り去る裏[ところ]と爲し得ず。」としました。
それと「亦須且恁去如此者」ですが、『二程全書』では「亦須且恁去。如此者只是德孤。」です。よって、これも「亦[それ]須く且に恁[かく]し去らんとす。此の如き者は只是れ德孤なり。」としました。

良南釣徒 さんのコメント...

 ご無沙汰してしまって申し訳ない。仕事を辞め、上京して、復学してはみたものの、自分が果たして研究者に向いているのか否か、将来食べていけるのかどうか、色々と迷いつつ学校生活を送っています…。
 『程氏遺書』は河南地方の方言も混じっているでしょうし、文字の間違いもあるでしょうし、あの朱熹ですら読めないところがあると告白しているほどですから、なかなか読みにくいものだと思います。
 こう読むんだとはなかなか断言し難いところがありますが、これからもコメントさせていただきますよ。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

多くの人は決断することが出来ずにずるずると時を過ごしています。私もその部類。仕事を辞めてまでの学業なのですから、よい結果となることを期待します。
しかし、程子の語は実に様々に読まれていますね。新釈漢文大系の『近思録』の語なども『二程全書』の点と違うところが結構あります。
意が通じればよいとするのが私のレベルです。またの投稿をお願いします。こちらも随時質問をします。