2009年3月13日金曜日

3月7日の続き

今日、図書館から『朱子学大系:朱子の先駆(下)』を借りた。楊亀山の語の読みはどうかと確認したかったからである。

「今の学者、只学を為すの方を知らずと為すも、又學成って何の用を要するを知らず。此の事、体大、須く是れ曾(かつ)て力を著け来るべく、方に易からざるを知らん。夫れ学とは聖賢の為す所を學ぶなり。聖賢の為す所を為さんと欲せば、須く是れ聖賢得る所の道を聞くべし。若し只博く古今に通じ文章を為り作忠信愿愨にして非義を為さざるの士と作るを要するのみならば、則ち古来此の如き等の人少ならかず。然れども以て道を聞くと為さば則ち不可なり。且如(たと)えば東漢の衰えたるとき、處士逸人と夫の名節の士と當世に聞ゆる有る者多し。其の作す處を観るに之を責むるに古聖賢の道を以てせば、則ち畧毫髪髣髴も相似ること無きは何ぞや。彼道に於て初めより聞く所無きを以ての故なり。今時の学者平居すれば則ち曰く、吾當に古人の為す所を為すべし、と。纔かに事有りて手に到れば便ち措置し得ず。蓋し其の学ぶ所以博く古今に通じ文章を為り或は忠信愿愨非義を為さざるを志すを以てするのみにして、須く是れ道を聞くべきを知らず。故に應に此に如くなるべし。之に由りて之を観れば、学べども道を聞かざるは猶学ばざるがごときなり。」だった。

「此の事、体大」には注があって、「これは重大な事柄で、勉強をつづけなければ理解できない、難しい問題である。」だそうである。
読む人の人数ほどに読み方がある様である。

0 件のコメント: