2008年12月14日日曜日

今日の難文

問、孝弟爲仁之本、此是由孝弟可以至仁否。曰、非。謂行仁自孝弟始。蓋孝弟是仁一事。謂之行仁之本、則可。謂之是仁之本、則不可。蓋仁是性也。孝弟是用也。性中只有仁義禮智四者。幾曾有孝弟來。仁主於愛。愛莫大於愛親。故曰、孝弟也者、其爲仁之本歟。
出典;『程氏遺書』一八。

問題は、「幾曾有孝弟來」の「幾曾」です。「幾」は豈と同じ?「曾」はそのままかつてでよいか?「幾曾て孝弟有りて來らんや」か?「幾曾て孝弟來ること有らんや」か?

そろそろ程伊川を終えようとしている。次は張横渠である。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

これは『論語集注』の最初のほうに引かれている言葉ですよね?学校で読まされたことがあります。「幾曾」は「何嘗」「何曽」と同じ、と出ていますので、反語で、「あにかつて」と読みを当ててよいのではないでしょうか?「有孝弟來」ですが、元の金履祥という人の『論語集注考証』で言及があって、

此れは洛中の方言なり。「來」字は、猶ほ許・蔡の間(河南の地方)の「裏」字のごとし。謂へらく、性中只だ仁義禮智有るのみ、何ぞ嘗て孝弟の事行の、裏に在る有らん、と。猶ほ倉中に只だ穀粟有るのみ、何ぞ嘗て秧禾の、裏に在る有らん、仁發出して方めて孝弟と為り、穀粟發出して方めて秧禾と為る、と言ふがごとし。

と言っています。とすると、「幾に曾て孝弟の、來(うち)に有らんや」とでもなるのでしょうか?もっとも、学校の先生は、「来」の字を句末の助辞として、「孝弟有りて來らんや」と読んでいた記憶があります。「有りて來らんや」が穏当な気がしますが、どちらがよいのか分かりません。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

『論語集註』學而に目を通せばよかった。自分のHPに『論語集註』を載せながら読めなかったとは!「幾曾」に注目しすぎました。
朱子は「幾曾」を「曷嘗」としていますね。
どうもありがとうございました。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

突然に神頼みの神からメールをいただきました。
教授は、「『二程全書』巻19・遺書伊川先生語第四の該当箇所には、「趙本作幾曾有許多般数来」という注があります。「幾」は「豈」あるいは「曷」と同義ですが、「いくばくか」と訓読しておいたらどうでしょうか。「幾」に「アニ」または「ナンゾ」の訓を宛てるのは日本語としては無理が少なくありません。「曾」はカツテ、この場合は疑問や否定を強調する助辞。文末の「来」は、疑問の助辞で、キタルではありません。普通は訓読せずに、前字に「ンヤ」と送ります。
「幾曾有孝悌来」の解釈は、「性の中には(本体である)仁義礼智の四者が有るのみで、一体全体、(作用のひとつである)孝悌が存在するだろうか。」です。」と仰いました。
「來」のこと、辞書で確認したら、「特定の読み方がある以外は読まない」とありました。
参考にします。

匿名 さんのコメント...

 たいへん説得力がありますね!「来」は、疑問だったのですね!とすると、この文章がとてもすっきりします。
 一人で漢文を読み続けていくのはモチベーション維持が難しいですが、こちらの「難字難文質問箱」のお陰で、活性化されております、ありがたいです。