2009年5月2日土曜日

今日の質問は『正蒙』の「中正篇」から

久し振りの質問です。
今日は張横渠の『正蒙』の「中正篇」の一文。
大亦聖之任。雖非淸和一體之偏、猶未忘於勉而大爾。若聖人、則性與天道無所勉焉。」です。
岩波文庫の『太極図・通書・西銘・正蒙』は、「大も亦聖の任なり。(ただ)淸和一體の偏に非ずと雖も、(併し)猶未だ勉むることを忘れずして大なるのみ。聖人の若きは、則ち性と天道とのままにして勉むる所無し。」と読み下している。
ここでわからないのは、「雖非淸和一體之偏」の読みです。「淸和一體の偏に非ずと雖も」と読んだ場合はどの様な意味になるのだろうか?これでよいのだろうか?と疑問が生じたのです。
ちなみに、王夫之の『張子正蒙注』の注釈は、「伊尹耕于有莘、亦夷之淸。出而五就湯、五就桀、亦惠之和。可兼二子、而執義已○、図功已亟、皆勉也。」です。
「淸和」は伯夷と柳下惠のこと。「淸和」は「偏」ではないのだろうか?ここでは偏とは捉えていないのでしょう!
伯夷・柳下惠は「淸和」だったが、勉めなかったので大には至っていない。伊尹は伯夷・柳下惠の「淸和」を兼ね持ち、それだけではなく勉めたので大なのであり、孔子は性と天道のままの人なので、勉める必要が無かった。そこに伊尹と孔子との違いがあるという文義となるでしょう。
なにか、質問らしくない様になってしまいました。

3 件のコメント:

良南釣徒 さんのコメント...

 こんにちは。この言葉は『孟子』万章下最初の章を踏まえてのもののようです。
 読みですが、わたしは岩波のものでいいのではと思います。
 自分なりに訳をつけますと、
「『大』とはいっても、『聖の任なるもの』のレベルである。『清』や『和』といった、聖人の一部分しか捉え得ていない偏頗なものとは違うが、なお意識的努力によって『大』となったに過ぎないのである。聖人であれば、意識的努力を用いずとも、そのままにして『性』や『天道』と合致するのである。」
 ここでは「勉」という言葉が、努力の必要がない聖人に比して、やや否定的に使われているようです。
 それにしても、王夫之の注の主旨が、いまいち分かりません…。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

感動!!
改めて書きます!

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

最初に「伯夷・柳下惠は「淸和」だったが、勉めなかったので大には至っていない。伊尹は伯夷・柳下惠の「淸和」を兼ね持ち、それだけではなく勉めたので大なのであり、孔子は性と天道のままの人なので、勉める必要が無かった。そこに伊尹と孔子との違いがあるという文義となるでしょう。」と申しましたが、これは王夫之の言から考えたもので、王夫之の言はちょっと穿っているかも知れません。『孟子萬章章句下1』では伯夷・柳下惠・伊尹を同等に置いていますし・・・。
良南釣徒さんが仰る「『清』や『和』といった、聖人の一部分しか捉え得ていない偏頗なものとは違う」ですが、私は『清』や『和』が偏頗なのかどうかが気になったのです。
実は、「雖非淸和一體之偏」を「淸和は一體に非ざるの偏なりと雖も」と読めるのではないかと思った次第です。こう読めば、『清』や『和』は偏頗だということになると思ったのです。