2009年3月3日火曜日

今日の質問

久し振りの質問です。朱子行宮便殿と楊亀山の語の様です。送り点に添って読んでみました。
*「朱子行宮便殿と楊亀山の語の様です。」は訂正します。どちらも楊亀山の語でした。

1.今之学者只為不知為学之方又不知學成要何用、此事体大須是曾著力来。方知不易。夫学者學聖賢之所為也。欲為聖賢之所為、須是聞聖賢所得之道。若只要博通古今為文章作忠信愿愨不為非義之士而已、則古来如此等人不少。然以為聞道則不可。且如東漢之衰。處士逸人夫與夫名節之士有聞當世者多矣。観其作處責之以古聖賢之道、則畧無毫髪髣髴相似何也。以彼於道初無所聞故也。
【読み】
今の学者は只学を為すの方を知らず、又学成りて何の用を要むを知らざるが為に、此の事体大いに須く是れ曾(すなわ)ち力を著(つ)け来るべし。方に易からざることを知らん。夫れ学とは聖賢の為す所を学ぶなり。聖賢の為す所を為さんと欲せば、須く是れ聖賢の得る所の道を聞くべし。若し只博く古今に通じ、文章を為(つく)り、忠信愿(げん)愨(かく)非義を為さざるの士を作さんとのみを要むれば、則ち古来此の如き等の人少なからず。然れども以て道を聞くを為すは則ち不可なり。且(また)東漢の衰えの如し。處士逸人と夫の名節の士と當世に聞くこと有る者多し。其の作す處を観、之を責むるに古の聖賢の道を以てすれば、則ち畧(ほぼ)毫髪も髣髴相似ること無きは何ぞや。彼の道に於て初めより聞く所無きを以ての故なり。

2.今時学者平居則曰、吾當為古人所為纔有事到手便措置不得。盖其所学以博通古今為文章或志於忠信愿愨不為非義而已而不知須是聞道故應如此。由之観之学而不聞道猶不学也。
【読み】
今時の学者平居には則ち曰く、吾れ古人の為す所を為すに當たり、纔かに事有り手に到れば便ち措置し得ず、と。盖し其の学ぶ所は博く古今に通じ、文章を為り、或は忠信愿愨非義を為さざるに志すのみにして、須く是れ道を聞くべきを知らざるを以ての故に、應(まさ)に此の如くなるべし。之に由りて之を観れば、学んで道を聞かざれば猶学ばざるがごときなり。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

 こんにちは。出典は『亀山集』巻十二で、羅豫章に語った言葉のようです。
 以下のように読みました。訓点とちょっと違います。

1.今の学者は只だ為学の方を知らざるが為に、又た學成りて何の用を要むるかを知らず。此の事体は大なり、是れ曾ち力を著け来たるを須(ま)ちて、方(はじ)めて易からざるを知らん。夫れ学とは聖賢の為す所を學ぶなり。聖賢の為す所を為さんと欲すれば、須く是れ聖賢の得し所の道を聞くべし。若し只だ博く古今に通じて文章を為り、忠信愿愨、非義を為さざるの士となるを要むるのみなれば、則ち古来此の如き等の人少からず。然れども以て道を聞くと為すは則ち不可なり。且如(たと)へば東漢の衰ふる、處士逸人と、夫の名節の士と、當世に聞くこと有る者多し。其の作す處を観、之を責むるに古の聖賢の道を以てすれば、則ち畧ゝ毫髪の髣髴として相似たる無きは、何ぞや。彼の道に於ける、初めより聞く所無きを以ての故なり。

 「只為(ただ…がために)」の「為」は、「為学之方」までしか掛からない気がしますが、ここの一句、まだ文意がしっかりつかめていません…。「須~、方~」という形は、最近の研究者は「~をまちて、はじめて~す」と読ませていますね。「且如」も、最近は「たとえば」と訓読させています。

2.今時の学者、平居には則ち曰はく、吾當に古人の為す所を為すべし、と。纔かに事有りて手に到らば、便ち措置し得ず。[以下略]

 「今時学者」のセリフは「吾當為古人所為。」までですね。

ウソツキ恒ちゃん さんのコメント...

お久しぶりです。
『「今時学者」のセリフは「吾當為古人所為。」までですね。』とのご指摘、まさにその通りだと納得しました。
1と2の文はどちらも楊亀山の語の様ですね。と言うより一文だった様です。
今、1について、黙斎はどうしてこの様な点をつけたのか?弟子が間違えてしたことなのか?そこらへんを自分なりに確認しようと思っています。
「只為」から続く文の意ですが、私は「学を為[おさ]める仕方を知らず、また、学を成すことができてもそれを用いる仕方を知らない」と解釈していました。それは處士逸人と東漢の名節とを挙げていたからです。ここらへんも、改めてチェック仕直すつもりです。これからも宜しくお願い致します。

匿名 さんのコメント...

 「只為」以降の文ですが、「何用」で一度ピリオドだと思うのです。で、そう考えますと必然的に「ために」が「為学之方」まで掛ることになります。
 学問の本当の在り方、つまり、「道を聞く」ということが起点になっていないことが原因で、それなりに儒教的教養が確立したとしても、それの用い方・活用法が分からず、後漢の處士逸人や名節の士のレベルで終わってしまうのだ、ということが言いたいのだと思います。だからこそ、真実の「為学の方」=道を聞く、というのは最重要事項なんだぞ、と。
 ちょっと解釈が先行し過ぎな気もしますが(汗)林述斎が刊刻した『羅豫章集』にもこの問答が載っていますが、そこの訓点も
「亀山語2先生1云.今之学者.只為レ不レ知2為レ学之方1.又不レ知3學成要2何用1.此事体大.須2是曾著レ力来.方知1レ不レ易.」
 となっていますので、多分、同様に読んだのかと思います。