2009年3月31日火曜日

詩も不確かなのです

大きな図書館に行けば朱子のこの語はあるでしょうが、面倒臭い私は投稿します。

蒼顔已是十年前 把鏡回看一悵然
履薄臨深諒無幾 且將餘日付殘編

これは、山崎闇斎が社倉法序に書いた朱子の語です。
あまり難しい語ではないと思いますが、正確にはどう読むのでしょう?

あまりに有名な詩らしいので、恥ずかしいから私の訳はコメントに載せます。

2009年3月20日金曜日



今日の質問。
質問は青二重線の語。これって何だろう?
出典は『稲葉黙斎先生農村自治に関するの訓戒』(田原擔庵著)

読みは多分、
「南總海近く氣暖かなり。三冬時に或は扉を開く。農夫苦しみて(または「はなはだ」)を負うことを勧む。天公賜衣を服するに似れり。」だと思うのだが・・・

2009年3月13日金曜日

3月7日の続き

今日、図書館から『朱子学大系:朱子の先駆(下)』を借りた。楊亀山の語の読みはどうかと確認したかったからである。

「今の学者、只学を為すの方を知らずと為すも、又學成って何の用を要するを知らず。此の事、体大、須く是れ曾(かつ)て力を著け来るべく、方に易からざるを知らん。夫れ学とは聖賢の為す所を學ぶなり。聖賢の為す所を為さんと欲せば、須く是れ聖賢得る所の道を聞くべし。若し只博く古今に通じ文章を為り作忠信愿愨にして非義を為さざるの士と作るを要するのみならば、則ち古来此の如き等の人少ならかず。然れども以て道を聞くと為さば則ち不可なり。且如(たと)えば東漢の衰えたるとき、處士逸人と夫の名節の士と當世に聞ゆる有る者多し。其の作す處を観るに之を責むるに古聖賢の道を以てせば、則ち畧毫髪髣髴も相似ること無きは何ぞや。彼道に於て初めより聞く所無きを以ての故なり。今時の学者平居すれば則ち曰く、吾當に古人の為す所を為すべし、と。纔かに事有りて手に到れば便ち措置し得ず。蓋し其の学ぶ所以博く古今に通じ文章を為り或は忠信愿愨非義を為さざるを志すを以てするのみにして、須く是れ道を聞くべきを知らず。故に應に此に如くなるべし。之に由りて之を観れば、学べども道を聞かざるは猶学ばざるがごときなり。」だった。

「此の事、体大」には注があって、「これは重大な事柄で、勉強をつづけなければ理解できない、難しい問題である。」だそうである。
読む人の人数ほどに読み方がある様である。

2009年3月7日土曜日

3月3日の質問の続き

楊亀山の一件、道学協会刊行の『佐藤先生冬至文』を本日確認したところ、ほぼ黙斎講義と同様だった。
これは、二つの訳を載せる必要があるのではないか、と思った次第。亀山はこう書いたのだが、黙斎の学派はこの様に読んでいるとするのである。

2009年3月3日火曜日

今日の質問

久し振りの質問です。朱子行宮便殿と楊亀山の語の様です。送り点に添って読んでみました。
*「朱子行宮便殿と楊亀山の語の様です。」は訂正します。どちらも楊亀山の語でした。

1.今之学者只為不知為学之方又不知學成要何用、此事体大須是曾著力来。方知不易。夫学者學聖賢之所為也。欲為聖賢之所為、須是聞聖賢所得之道。若只要博通古今為文章作忠信愿愨不為非義之士而已、則古来如此等人不少。然以為聞道則不可。且如東漢之衰。處士逸人夫與夫名節之士有聞當世者多矣。観其作處責之以古聖賢之道、則畧無毫髪髣髴相似何也。以彼於道初無所聞故也。
【読み】
今の学者は只学を為すの方を知らず、又学成りて何の用を要むを知らざるが為に、此の事体大いに須く是れ曾(すなわ)ち力を著(つ)け来るべし。方に易からざることを知らん。夫れ学とは聖賢の為す所を学ぶなり。聖賢の為す所を為さんと欲せば、須く是れ聖賢の得る所の道を聞くべし。若し只博く古今に通じ、文章を為(つく)り、忠信愿(げん)愨(かく)非義を為さざるの士を作さんとのみを要むれば、則ち古来此の如き等の人少なからず。然れども以て道を聞くを為すは則ち不可なり。且(また)東漢の衰えの如し。處士逸人と夫の名節の士と當世に聞くこと有る者多し。其の作す處を観、之を責むるに古の聖賢の道を以てすれば、則ち畧(ほぼ)毫髪も髣髴相似ること無きは何ぞや。彼の道に於て初めより聞く所無きを以ての故なり。

2.今時学者平居則曰、吾當為古人所為纔有事到手便措置不得。盖其所学以博通古今為文章或志於忠信愿愨不為非義而已而不知須是聞道故應如此。由之観之学而不聞道猶不学也。
【読み】
今時の学者平居には則ち曰く、吾れ古人の為す所を為すに當たり、纔かに事有り手に到れば便ち措置し得ず、と。盖し其の学ぶ所は博く古今に通じ、文章を為り、或は忠信愿愨非義を為さざるに志すのみにして、須く是れ道を聞くべきを知らざるを以ての故に、應(まさ)に此の如くなるべし。之に由りて之を観れば、学んで道を聞かざれば猶学ばざるがごときなり。

2009年2月7日土曜日

今日の質問

今日も黙斎の『冬至文講義三講』からの質問。
一番左側の小注の読みです。
信按朱子嘗議呂居仁見学者則商量見後生則教之詳見語類です。
先ずはどこで区切るか?そしてどう読むかです。
「議」の下に「下」という点があるのが悩む原因の一つです。
区切りは
「信按朱子嘗議呂居仁見学者則商量、見後生則教之。詳見語類」でしょうか?
因みに、「信」は黙斎。「呂居仁」は呂東莱です
私の読みはコメントに書きます。

赤字のところですが、良南釣徒様にご助言をいただきました。
「呂居仁」は呂本中に訂正いたします。

2009年1月30日金曜日

久し振りの質問



























久し振りの質問は稲葉黙斎の冬至文からです。これは「黙斎を語る会」が最初に読んだ黙斎の文で、HPにも載せてありますが、今もかなりの間違えがあるままになっています。・・・わかるところは近く訂正するつもりです。

ここで質問とするのは左側から4行以降の以下の句です。
先師記其後曰、聽得尤善。抑々吾 邦自神武以来此學未開矣。欲得其未開之學於己、豈浮沈于武人俗吏之間畏縮險巧桀黠之徒者之所能得耶。先生標的鞭策之編良有以也吾人所宜致思而勉勵也。
読みはざっと、「先師其の後に記して曰く、聴き得る尤も善し。抑々[そもそも]吾が邦神武より以来、此の学未だ開かざるなり。其の未だ開かざるの学を己に得んと欲せば、豈に武人俗吏の間に浮沈し、畏縮・険巧・桀黠 [けっかつ]の徒なる者の能く得る所ならんや。先生、標的鞭策の編良[まこと]に有以也。吾人宜しく思いを致して勉励すべき所なり。」となるでしょうか?
ここでわからないのは、「有以也」の読み方です。
「以」を辞典で調べると、「もってする」とか「おもう」とかありますが、また、「これ、この」という意味もある様です。「これ」の意であれば、「先生、標的鞭策の編良[まこと]に以[これ]有り。」となるのですが。どうでしょう?